2009年11月23日 (月)

Communication

20091122_communication 先日、職場で新しく他の部署から移ってきた人の歓迎会を開いた。会の半ばで着任の挨拶に続いてみんなからの質問タイム。その中で「異動の話を周囲にしたら、bigakiraさんのいる部署だねといろんな人に言われて・・・」という言葉が飛び出して、自分も驚いたけども周囲も「おぉ~」という声が。

立場的にも個人的なポリシーとしても、なるべくいろんな人と繋がってアンテナを広く張っておきたいと思っていたから、相手にもそれが届いているのだと言うことがとても嬉しかった。もちろん印象がよいから覚えているとは限らないので単純に喜んでばかりはいられないけれど、自分または自分の仕事が社内で知られているというのは大事なことだ。
そのときに気をつけているのは、単に自分のやっていることを知らせるだけではなく、なぜ大事か、面白いか、そして何より話し相手にどう関係しているかということを伝えること。
たとえ全く違った人やシステムを相手にしていても、全く違う種類の活動(例えば、設計と運用、品質保証と契約)をしていても、考え方や方法論には共通点や学ぶべき所が何かしら有ると思う。それを理解してもらうことで結果的にはいろんな情報がもらえたり、こちらの事を考慮して仕事を進めてもらえたりということがある。

翻って、最近話題になっている「事業仕分け」に注目してみると、目的を達成できているとは思えない事業はもとより、スパコンや水星探査などその世界では成果を出していても個人が生活を営む上で直接の影響がわかりにくい事業が見直しを求められている。国として誰が意思決定するかの曖昧さと議論のお粗末さには唖然とさせられるところも有るけれど、仕分け人の知識レベルが国民の平均的なものだと考えたら、何千億円ものお金を使うことに国民が共感を得ないなら国民のお金を使うべきでは無いというのはごく当たり前の事だ。

警察や市役所の金銭的価値がいくらかなど誰も考えないし、小惑星探査機ハヤブサや深海探査機しんかい6000のように未知の世界へ挑むことで世界的に熱烈なサポーターを得ている活動もある。

もちろん全ての研究や事業に対して全国民の理解を得ようなんてのは無茶だとしても、例えばサイエンスの研究に関して一件でも興味を持ってもらえていたり、意義が理解できていれば、そもそもその人から「このサイエンスプロジェクトへの投資に対する利益はいくらか」なんて質問は出ないはず。

そのためには税金を使った大規模な研究や開発、事業を行うなら、たとえサイエンティストやエンジニアであったとしても、社会に対してその意義を伝えると共に、そのお金を提供している人の感覚を受け止めていかなければならないと信じている。
それは単なる広告とか広報ではなくて、それを進めていくサイエンティストやエンジニアが自分で考えて自分で語り自分たちの耳で聞くこと、世の中とコミュニケーションをとることが明確に求められる時代がとっくに来ているんだろうと思う。

2009年6月13日 (土)

Just face it!

20090613_justfaceit 大きな恥をかく前に小さな恥をかいておく。前回の記事ではそんなことを書いた。もちろん小さな恥もかかずに何事も完璧にこなしていく人たちはいるので、恥は必ずかくべきだと言うつもりはない。

自分はそういった経験をしないと、なかなかやる気にならないという困ったの性格を元来持っているようだし、それはどうやらずっと付き合っていかなければならないようなのでそうしているだけの話だ。そして何よりも、周りの目を気にして取り繕っても、最後にはそこで回避した問題以上に自分が困ることになると信じているからだ。

こういったことを学んだのは実は高校生の時だ。今回はその話を書こうと思う。

僕が通っていた高校は、少なくともその当時はちょっと変わったポリシーを持っていた学校だった。「誇りある自由と規律」と言う歌詞が校歌にも出てくるように校則は学生手帳にも一切書かれていない。あくまで学生が規律というものを理解して、学生たるべき行動を自分の責任において行うべきであり、教師はあくまでセイフティーネットであるとのポリシーだった(教師の中でも色々なスタンスの人がいたが、少なくとも学校の体制としてはそうであった。今でも僕はそう理解している)。

もちろん高校生にそんなことが100%理解できるはずもなく、制約のある自由とは何か、教師と衝突することもあったけれどそれも教育のプロセスだったのかもしれない。当時はそんなスタイルに対しては好きとも嫌いとも思わなかったけれど、入りたいと願った大学は自由な校風で知られる大学だったのだから、多少は感化されていたんだろう。

そういった自由なスタイルが好きでも嫌いでもないと言ったけれど、一つだけは明確に誇りに出来る校風があった。それは中間テストや期末テストの時に試験監督を付けないというやり方だ。つまり先生は試験問題を配って、「始め」というと教員室に帰ってしまい、終わりにまたやってきて「やめ」と言って解答用紙を回収するのだ。

やろうと思えば堂々と好きなだけカンニングが出来る。それでも3年生にもなるとカンニングをする生徒なんて特別な事情を抱えた奴以外はほとんどいなかったんじゃないかと思う。なぜなら、大学受験が現実のものになってくると、カンニングをやって欺いているのは教師ではなくて自分自身だということに気づくからだ。いくら期末試験で良い点数を取ったとしても、それは自分の実力ではないのはその本人が一番よく知っている。
いくら出来なさそうだと分かっていても、自分の実力と向き合っていくしか選択肢は無いことを思い知らされるのだ。かなり前にこの伝統は無くなってしまったらしくとても残念だ。

自分自身から逃げるのは簡単。でもそれはたいていの場合問題を大きくするだけだ。

思い出しても好きな先生とか尊敬している先生なんてほとんどいないけれど、そんなことを教えてくれた学校は好きだったりするから不思議なものだ。

(※後日談)母校では、いつのまにか試験監督をまた廃止したらしいとのこと。経緯は知らないけれど、ユニークで貴重な伝統の復活はとても嬉しい。

2008年12月15日 (月)

A Small Big Thing

20081215_small_big_thing 毎日娘を保育所に送っていくのは基本的に僕の役割だ。今朝はいつもより遅れて家を出たので急いで送り届けて保育所を出ようとしたら「お父さん、英語できます?」と先生に呼び止められた。

急いでいたのと突拍子のない質問にわけがわからず「ん?んん??」となりながらも事情を聞いてみると、子供さんを休ませる連絡電話をかけてきた親御さんに、「保育所でインフルエンザが流行っているから病院に行ったら念のためそのチェックをしてもらって」と英語で伝えて欲しいとのこと。

この保育所にも外国人の子供達(と思われる)がいて、特に小さい子のクラスでは1~2割に及ぶ気がする。流ちょうな日本語を話す親もいる反面、苦手な親も多いようで片言の日本語と英語で先生も親も一生懸命にコミュニケーションしている姿をよく見かける。

そういう事情を知っているのと、自分のアメリカ生活を思い出すと人ごととは思えず、いつもより一本遅い電車に乗ることを覚悟して電話に出た。仕事や日常生活では使わない保育所用語を似て非なる言葉に言い換えながら何とか理解してもらって先生に電話を返した。

自分もアメリカで子育てをしたからよく分かる。子供が病気な上に慣れない言語で、特に病気の症状を伝えるのは非常に大きなストレスだ。さらには相手になかなか英語が伝わらないとなるとなおさらである。例えば「熱があって、ウンチが柔らかいので下痢もしているようで、鼻水と咳まで出ている」とか「大豆アレルギーでじんましんが出てしまった」なんて学校の英語教育では言えるようにならない。
電話が終わった後は、先生方は数人で「良かった良かった、通じた通じた」と喜び合っていたので普段からよほど苦労されているのだろう。

先生が英語を話せれば簡単に解決するのだが、それも日本人の英会話レベルを考えると酷だし、なによりそれだけの人材を集めてくるとなれば保育費にもはね返ってくる。
ならば、例えばせっかく市役所に外国語の相談窓口があるのだから、親と保育所の間に通訳が入るような三者電話のシステムが有償でもいいから有れば重宝するのではないかと思う。僕はアメリカで病院や保険会社とのやりとりに似たようなシステムを何度か使わせてもらって非常に助かった。人員のやりくりは大変かも知れないが、電話の特性を生かしてニーズと供給がバランスするように地域エリアや時間帯を設定すればサービスに見合った効果は得られるだろう。なにより設備投資としては最低限、何十万円かでテレコン装置を組めば解決するのだから安いものだ。

多様性がある環境を「特殊な状況」、「つきあいが大変」と意識させられるストレスが薄れてみんなが快適に暮らせることは、小さくてもとても大事な事だ。

2008年11月30日 (日)

上下のバランス

20081130_ 会社のトップに自分の仕事を報告する機会があった。割当時間はたったの3分だったけれど自分の仕事を会社の最高責任者に聞いて貰える機会などそうそう無い。小さく地道にこつこつやっている仕事ながらも組織にとって大事な仕事だと思っているので、報告した後の第一声で良いコメントが貰えた点では嬉しかった。

そしてある偉いさんが、「観点は少し違うかも知れないがうちの部署でもやろうと思っていた活動と似ているので、出来るところは一緒にやっていきたい」と言ってくれた。その一言だけで大きな協力体制が出来上がって物事が進んでいく下地が出来るのだから、やはりトップに話が通ると、何気ないような一言でもそれなりの影響力があって、すごい速さで物事の方向性が決まって行く。

当たり前のことだけれど、ボトムアップの活動がトップにちゃんと伝わって評価されることと、トップダウンで方針が決まってそれが現場を動かすという事のバランスって大事だと再認識した出来事でした。

唯一悔やまれるのは、トップから質問が飛んできたときに当たり障りのない答えしか出来なかったこと。そして次の話題に移ったと同時に答えるべきだったことが頭に浮かんで来るという良くあるパターン。
上司には「脊髄反射で答えられるようにならなきゃ」と言われたとおり、洞察が甘いからこうなるわけで、普段からもっと自分の仕事に対して問いかけて行かねばと反省したのでした。

(写真は近所の紅葉。透き通った黄色い葉が夕日を受けてオレンジに光って綺麗だった)

2008年7月25日 (金)

実在しない壁

僕が高校時代につけられていたあだ名の中で最もポピュラーなのは「ノモ」だった。理由は単に当時は顔が似ていたからだ。そんな単純な理由で野球にはあまり興味がないのに近鉄で活躍していたときから野茂投手を応援していた。
彼が引退したのは1週間も前の事だから既に騒がれ尽くした感があるけれど、どのニュース番組や新聞記事を読んでもすごい事を成し遂げたことか伝わってくる。

でも彼が「日本人がメジャーで通用することを初めて証明した」とか「後輩達の為に道を作った」偉大なプレーヤーとして称賛される本当の理由は何だろうか。

僕は、誰もがあると信じていたメジャーの壁が実は無かったと示してくれたからじゃないかと思っている。もちろん当時はFAでもなければメジャー移籍の仕組みは無かったし、特例のような形で海を渡った事を考えると壁は有ったと言うべきかもしれない。彼が努力して乗り越えたと言うべきかもしれない。

それでも日本人はメジャーで通用するはずがないとの常識があって、彼も嫌がらせに近いマスコミ攻撃を受けていた当時を思えば、みんなよってたかって彼の前に実在しない壁を見せようとしたり、せっせと壁を作ろうとしていたかのようだった。

僕らは日々の生活の中で常に道を選ぶ。その時に勝手な思い込みで存在しない壁を自分で建てては(もしくは建てられて)何かをあきらめてしまってはいるのかもしれない。
それによって何かやりたい事をあきらめてしまうのはあまりにももったいない。だから仕事でもプライベートでも目の前にある壁が本物かどうか常に目を凝らして見極めたいと思う。

2008年3月22日 (土)

生き方

20080323 僕がSDMに入学願書を出すときには3人の方に推薦状を書いてもらった。入学選考が比較的簡素なSDMプログラムにおいて、この推薦状は非常に大きな意味を持っていたと思う。

だから今日、そのうちのお一人が急折されてしまわれたと知ったのは大きなショックだった。仕事上、平日には簡単に立ち寄れる距離でもないし年度末の忙しさもあってお礼の挨拶も先延ばしにしていたのが今更ながら悔やまれる。お通夜には参列する予定だけれど、こんな形でお会いしてお礼を述べなければならないと思うと悲しさと申し訳なさで泣けてくる。

実は10日ほど前にも高校の後輩が急折している。大学卒業以来会っていなかったけれど、僕にバスケットボールを教えてくれた恩人の1人だし、通夜には行きたかったけれど、そのときは季節の変わり目に決まって引く風邪と帰国後頑張ってきた疲れが重なったのかダウンしていたので行けずじまいだった。

2つの出来事は大きな存在感を持っていて、しばらく消えそうには無いけれど、この週末は彼らのことを偲びながら自分の生き方について考えてみたい。
それが彼らへの弔いでもあり、残された者に出来る精一杯のことなのだろうと思う。

合掌

2007年8月13日 (月)

変わりゆくこと

20070812_1 アメリカにいてもWebニュースやブログをチェックすれば日本のローカルな情報がわかるのはとても嬉しい。
どこそこに日本一のビルが建つ構想が発表されたとか、あのショッピングセンターがリニューアルしたとか、とある駅前の和風カフェが閉店したとか。
でもアメリカでの生活に慣れてしまった今、それらの多くは日本にいたときのような現実感が無くなって単なる記号としての情報としか感じないのだ。

それでも今日知ったニュースには少なからず動揺してしまった。大阪難波駅のターミナルビル群のリニューアルに伴ってロケット広場がなくなり、ロケットも撤去されるというニュースだ。
ここは高校生の頃から待ち合わせによく使っていて、早く着いてしまったときなどにはこのロケットを見ながら相手を待つことも多かった。赤いNASDAのロゴとNIPPONという文字を見ながらここで今このロケットが打ち上がっていったら面白いのに・・・・なんていうとんでもないことも考えたりもした(間違いなく自分も吹き飛ぶ)。今の日本の主力ロケットH-2Aと比べると6割ほどしか高さがないけれど、ビルの間からまっすぐに天を向く30mを超えるN-1ロケットは高校生だった自分に将来を考える時間をくれ、そしてさらにはそれを楽しい時間にしてくれるのに十分なものだった。
時代に合わせて街並みが変わっていくのは当たり前のことだし、いくら感傷的になっても仕方がない。次に難波を訪れたときに、あの街が今の僕をわくわくさせてくれるように変わっていることを望むばかりだ。

もちろんアメリカで勉強しながら子育てしながら暮らしている自分も、毎日いろんな事がどんどん変わっていく。自分が好む好まないにかかわらず確実に変わっていく。それでも、どんなに忙しくても自分がどう変わっていっているのか、将来どう変わっていきたくて、そのために何をしているのか、立ち止まって考える時間を無くしたくはない。

遠い大阪の街に立つロケットを久々に思い出しながらそんなことを考えたのでした。

2007年5月20日 (日)

Hanada Shonen-shi

20070519_1 春休み?に入って2日目、夏学期に向けての準備は月曜からと決め込んで、この休日は娘と共に過ごすことにしている。普段から風呂に入れるのと、タイミングが良かったときにおしめを替える位のことはしているが、昨日は久々に妻に別室で寝てもらって自分が一晩付き添って、今日は夕方から出かける妻の代わりに面倒を見た。

たった2ヶ月のうちにえらい変わるもんで、以前は2時間に1回起きていたのが朝方1回起きただけで後はずっと寝てくれた。長く寝るには体力がいるはずなので成長したのだろう。
ただしやっぱり変わらないこともあって、1日のうち1~2時間くらいは何を言っても泣きわめく。昨日からちょっと喉に痰が絡んだ感じの咳をしていたので気にしていたのだが、医者に連れて行っても隅から隅まで大丈夫と言われるし、今晩も力の限り泣きわめいたので体調が悪い訳ではないみたい。いずれにせよ、親を圧倒するくらいのエネルギーを振りまいているのでいいのだろう。

もちろん娘の面倒を見ている間はたいしたことは出来ないので、日本から持ってきた唯一のDVDシリーズ、『花田少年史』を見る。日本で数年前に深夜放送していたときに気に入って、DVDでアメリカに来るのに合わせて全巻そろえてしまったのだ。確か去年には映画化もされていたはず。

昭和40年頃と思われるほのぼのした田舎を舞台に、事故で幽霊が見えるようになってしまった9歳の典型的な悪ガキが、成仏させて欲しいと頼むいろいろな幽霊を助ける(というか無理矢理に騒動に巻き込まれる)話なのだけど、田舎で育つ純真な悪ガキと過去を引きずる幽霊とのやりとりが妙に泣かせる。

自分が幼少時代に夏休みや正月を過ごした広島の田舎を思い出させると言うこともあるし、山や川を駆け回り、牛の世話をし、おやつは木に登って取った果物という父の話の影響もあるだろうけども、不思議と懐かしい。呼び起こされる感情はリリーフランキーの『東京タワー』と似ているのかもしれない・・・見てないけど。

そして今は花田少年を自分ではなく、力の限り感情表現する娘と重ねて親の立場で見てしまうから自分の変化の大きさにも多少驚いてしまう。

日本ではレンタルも出ているはずなので興味を持った人はぜひどうぞ。

2007年1月17日 (水)

1995年1月17日

もう12年も経ったけれども、今でもたまにあのときを思い出すことがある。
幸い家ではテレビとか食器が壊れたくらいで済んだけれども、震災後5年経って関西を離れてからも3年くらいは微震でもすごく不安になったくらい僕にとってもひどい体験だった。
まだ上手く言葉では表現できないけれども、あの震災が自分の中の何かを確実に変えてしまったことは確かなのだ。

最近は宇宙開発分野でも災害チャーターといった言葉が聞こえてくるし、災害監視、救助活動支援システムへの取り組みが聞かれるけれども、災害現場で実際に救助に当たる市民まで含めると途方もない規模のシステムになる可能性が高い。システムズエンジニアリングはそれに何か光を与えることができるのだろうか。
もちろん、災害に面した人たちの事を身近に感じることができないままでは、いくら論理的に洗練された高度なシステム開発を目指しても本当にいい物なんてできはしないのだけれども。

日本では17日の朝が始まった今、あの日の出来事に関わった全ての人たちのために

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